1932年5月、コングレガシオンは画期的な決定を行いました。それは、日本の福島にミッションを開く招待を承諾したことです。その年の秋、聖フランシスコ・ザビエルが「私の心の喜び」と呼んだ人々の中に住み、働くため、五人のシスターが日本に向かいました。16世紀から17世紀にかけてのザビエルや他のカトリック宣教師の仕事は日本人キリスト教徒により密かに保存されてきました。彼らは、迫害の中で、司祭や秘蹟(洗礼を除いて)の欠如にもかかわらず、信仰を世代から世代へと伝えました。しかしながら、彼らは極めて少数でした。
モントリオールに到着したマルグリット・ブールジョワと同様、シスターたちは即座に学校を開くことはできなかったため、少なくとも始めは、他の宣教方法を探さざるをえませんでした。マルグリット・ブールジョワのように、シスターたちは現地の婦人たちと密接な関係を保って働きました。政府は外国人シスターたちの計画に許可を与えることを渋りましたが、1936年には福島に診療所を、1938年には幼稚園を開く許可が下りました。彼女たちはまた、八戸と福島で、公教要理を教え、英語、フランス語、音楽の個人教授をしました。この間更に、カナダからシスターたちが到着し、日本人女性が修練院に入会し始めました。この修練院はモントリオール以外で開かれた初めての修練院です。そして1941年12月、太平洋戦争が勃発したのです。
これに続く数年はシスターたちにとり至難なときでした。建物は閉鎖され、幾人かのシスターは捕虜交換としてカナダに送還され、また幾人かは拘禁され、福島の修道院は民間人捕虜の収容施設として使われました。戦時中の多くの日本人と同様、シスターたちは飢え、寒さ、恐怖に曝されました。彼女たちが生き延びることができたのは、主として、3人の日本人修練者の忠誠と世話のおかげでした。
戦後の日本ではコングレガシオンの仕事は大きな実を結びました。1946年、19人の戦争孤児の受け入れをきっかけとして、福島に小学校を開校しました。校舎は放棄された家畜小屋ではなく、プレハブ建築で、「桜の聖母学院」と名づけられました。1949年、福島に桜の聖母学院中学校を開校し、また同年、コングレガシオンは日本の南にある戸畑市の明治学園の経営責任を引き受けました。1952年、福島に桜の聖母学院高等学校を、1955年に桜の聖母短期大学を開校しました。1956年までには、33人の日本人シスターが18人の北米シスターと共に働き、10人の志願者がいました。学校の生徒数は1707人で、そのうち153人がカトリック信者でした。
